秋田で郷土愛が醸成されないのは何故か(2)

歴史を振り返れば、坂上田村麻呂の蝦夷討伏の時代は、よそ者を嫌って9世紀の元慶の乱で反抗することはあっても中央に刃向かうほどの勢力は無く、零細な豪族同士の足を引っ張る身内争いや、朝廷側に加担し同じ蝦夷と戦ったりでリーダー不在、まとまりがなく御輿を担いで全体で向上しようといった気質は見当たらない。(これらの気質は完全に現代の秋田人にも引き継がれている)
秋田の歴史(古代~10世紀)

11世紀からは前九年、後三年の役などで歴史の記録に地名が登場することも多少あったが、戦の主人公は地元の人間ではなく結果的には領地を荒らされただけである。西を海、残りの三方を山に囲まれた交通不便な島の様な孤立した立地条件のせいか結局奥州の中心地とは成り得ず、豪族、御家人の小規模な支配と抗争に終始した。
秋田の歴史(11世紀~16世紀)

戦国時代は安東氏の身内抗争が軸(現在の能代対土崎)となり、結局関が原で安東氏は福島三春に、代わって佐竹氏が国替え・転封された。蝦夷討伏の時代から700年くらいは近隣同士、身内同士の争いに明け暮れ、足の引っ張り合いの歴史しか見えてこず、産業もこれといったものもなく、文化を生み出す余力などあるはずもない。
(こうなるともうDNAに刻まれているレベル)
秋田の歴史(17世紀~幕末)

秋田に転封された32歳の佐竹義宣、それ以前は前田氏、島津氏と並ぶ豊臣政権の六大将であったにもかかわらず54万石から20万石に減転封は本人も『青天の霹靂』だったそうで、これはもう茫然自失・意欲喪失で当然といえば当然。いつかは幕府からのお家取り潰しの沙汰があるだろうからそれに対抗しようと思ったのか、あるいは極端な恐怖心からか、徹底的に守りを意識した久保田城と(やたらクランクとT字路の多い)城下町(秋田市)は築いたものの、その後の江戸時代の歴代藩主は、蘭学や人材教育に少々力はいれたものの、知行の約7割を常陸から連れてきた家臣団が食いつくし、これといった歴史的な建造物など造る余裕は無かったようだ。既に役目を終えた侍たちが文化を生むことに熱心だったわけがなく、受け継がれているのは角館の桜樺細工くらいか。
(県庁役人のシロアリ体質はこの頃から変わっていないと言える)
関ヶ原でも活躍し家康の信任も厚かった本多正純が失脚し、幽閉された横手。この本多正純の失意も相当なものであったろう。要するに江戸時代は秋田(久保田)は流刑地であったわけだ。

そして迎えた戊辰戦争では、藩内の勤王派を抑えて一旦は奥羽越列藩同盟に加わったものの、最後の12代藩主佐竹義堯がブレまくり(あるいは薩摩による相当な脅しを受けたのか)、奥羽鎮撫総督の九条道孝を擁して北方政権を樹立するチャンスがあったにも関わらず、仙台藩の使節を皆殺しにし、あろうことか会津の悪口を書き添えて現秋田市の五丁目橋付近に首を晒したなどという卑劣な武士道にあるまじき行為で官軍に寝返った。
武士の筋を通した鹿角(南部藩)、亀田(亀田藩)にもそれなりの思惑はあったのだろうが、やはり近隣同士の醜い争いだ。(しかし、久保田藩よりはよほど筋が通っている)
しかも寝返ったにもかかわらず褒美をほとんど手に入れることができず、さらに奥羽越列藩同盟(東北の大部分)から将来にわたって疎まれる存在となってしまった。秋田の武士は日本中から軽蔑の対象となってしまった。
ついでに、かつて安東氏が転封された福島三春藩も寝返っていて、ここも後々まで軽蔑の対象である。(やはりDNAに刻まれているとしか言いようが無い)

廃藩置県では、新政府が尾去沢鉱山の銅を必要としたため、官軍についた秋田ならコントロールしやすいだろうと鹿角を無理やり秋田に組み入れた(鹿角は旧南部藩岩手を希望した)。
秋田の歴史(幕末・戊辰戦争)

これ以降は、国、あるいは国と密着した財閥企業による『植民地』の時代で、盲目的に国に従ってきた歴史しかない。(交付税で暮らす現在もそのまま)
・藤田財閥(現:同和ホールディングス)、古河財閥、三菱財閥による鉱山支配
・米増産(後に水力発電)のために田沢湖の復活不可能な環境破壊
・帝国石油(半官半民)による八橋油田の独占
・米増産のための八郎潟干拓、後に減反政策による180度の転換政策
・秋田県企業局とゼネコンによる無駄なダム建設(山の中だから話題にもならなかった)
わずかに文化に寄与したのは藤田財閥の康楽館くらいのものだ
しかも、戦前戦後一貫して貧困層の首都圏への労働力供給(婦女子の売買、徴兵、集団就職の金の卵)、教育に力を入れ始めた昭和30年代以降は、高校で成績の良い者を首都圏に供給する頭脳供給(やはり篤胤信淵族を増やしただけで形を変えた集団就職)と続き、これは現在も継続中だ。

こんな歴史のどこに誇りを持ち郷土愛を醸成しようというのか・・・重箱の隅をつついても無理なものは無理に思える。
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秋田で郷土愛が醸成されないのは何故か(2) への5件のフィードバック

  1. リノタン より:

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    う~ん、そうなんです。
    秋田はまさに流刑地で植民地です。
    なんといっても身内の小競り合いにエネルギー使いすぎではないかと
    ずっと感じていたのですが、歴史が物語っていたのですね。

  2. 歴史好き より:

     
    佐竹義宣は3歳の時に那須氏(かの那須与一を輩出した下野那須氏)との和睦のために那須資胤の娘(6歳、後の正洞院)と婚約させられ、16歳で結婚。5年後の21歳のときに24歳の正洞院が謎の自害。
    転封された後、彼女の墓を常陸国の耕山寺(茨城県常陸太田市)から秋田の現秋田大学の裏に移しています。(平田篤胤の墓も傍にあります) 東京の下谷にも寺を造りましたが、秋田の正洞院は明治に入ると廃寺となりました。
     
    佐竹義宣は伊達政宗とは犬猿の仲だったものの母方の従兄弟同士だったり、秀吉から『羽柴』の姓をもらったり、正室の死で鬼となったのか22歳のときに常陸南方33館の諸氏を一斉に謀殺し常陸を統一したり、秀吉配下では26歳で54万5千8百石の天下8位の大大名(同時期、加藤清正25万石、石田三成20万石弱)だったのですから、関が原後に20万石に減転封は想像を絶する落胆だったでしょうね。
    しかし、能力主義で家臣を登用し老臣に足を引っ張られたり、大阪冬の陣では活躍したものの感状くらいしかもらえなかったり、徳川家からは相当に危険分子扱いされ、64歳で死ぬまではある意味筋を貫いたものの波乱万丈な悲運の武将のイメージです。
    正洞院が絶世の美女だったり(肖像は残っていないようです)すると、佐竹義宣は大河ドラマになっていたかもしれませんよ。
     

  3. 宿敵 より:

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    能代と土崎が仲が悪いのと同様、21世紀になっても大館と
    鹿角は思いっきり仲が悪いw
     

  4. 納得 より:

     
    確かに明治以降の秋田の歴史は植民地政策下の歴史ですね。
    (どこかの国のように謝罪と賠償モノかも)
    官選知事45人は全て秋田県以外の出身、戦後の昭和22年民選知事になっても初代、2代は中央の代理のようなもの。昭和30年小畑知事になってようやく独立したかという格好。
    それから、小畑(6期)、佐々木(5期)、寺田(3期)各知事と続くわけですが、こういった長期の知事はもう出にくいでしょう。佐竹知事も1期で終わると予想しています。
    県という自治体の単位が無意味になってきている証拠でしょう。
     

  5. バイリンガル より:

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    木村伊兵衛の有名な秋田美人の写真は素晴らしいと思うが、
    あの訛りの酷い知事のCMはいただけない。秋田弁に拘るトッ
    プが考えることは、『お前たち、秋田弁、秋田訛りが抜けな
    いと秋田から出て行けないだろ?』(ニヤニヤ)
    と言われているようで気持ち悪い。
    秋田弁がネックで秋田を出て行けないなんて時代は年寄り達
    の時代の話だ。
    blog主が書いているように、標準語”も”きちんと話せる知事
    でなければ県外に向けての発信力が無い。
    公人なんだから、きちんとした標準語で語れよなぁ。
     
    それにしても、何故秋田県内であんなCM流す必要があるのか
    意図がわからない。
     

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