『あきたこまち』は実は福井県生まれ・・・とはいうものの

筆者は農業に関しては全く門外漢で遠い親戚に練馬の石神井の農家(だった)がいたくらいだが、小さい頃親父の仕事で秋田に引っ越して来た頃は秋田市の郊外というより秋田駅の裏(現在の東口)からそう遠くない場所から田んぼが遥か遠くまで続いていてエラい田舎に来ちゃったなという印象だった。その後、都市化が進んで田んぼが消えていくのをよく覚えている。

米どころ秋田という言葉は既に死語に近く今は北海道を指すそうだが、農業生産高、従事者人口などどれをとっても既に農業県ではないにも関わらず、未だに『基幹産業』だと言いたい人がいるのはある意味滑稽ではあるが、実はそれなりに歴史があるから秋田は農業県と言える資格があるのも事実だ。このことについては県民が十分誇れることだと筆者は考えているし、秋田の若い人はせめてその歴史を知ってほしいと思う。問題は戦後の農協がその役目を終えたにも関わらず無くならないため農家をスポイルし今の残念な状況があることなのだ。

歴史を振り返れば、8世紀、9世紀頃に坂上田村麻呂が秋田を討伐に来た頃稲作が盛んだったというのは考えにくい。おそらく稲作技術などは全国的にさほど変わらないはずで、雄物川など大きな河川の氾濫などもあったろうから寒冷な気候と併せて秋田は米どころというわけではなかっただろう。もし、秋田県全体あるいは青森県あたりまで稲作が盛んならば、もっと徹底的に討伐、征服を進め朝廷の食料生産地として開発を進めたことだろう。
むしろ、水害や気候的に寒冷で稲作には適さないと判断したため討伐を秋田城あたりを北限として止めたというのが実情ではないだろうか。
地形的に平野が多いため、そこに目をつけて治水、開墾、稲作を進めたのはもっと後の時代で江戸時代にはどうやら稲作が林業、鉱山とともに主要な産業になっていたようだ。

以前、東北農業試験場稲作研究 100年記念事業会がまとめた『東北の稲研究』というものの部分的なコピーを読んだことがあり、そのときのメモを読み返すと、秋田県が東北の冷害に強い稲を作ったことが非常にエポックメイキングだったことがわかる。
・明治、大正時代は冷害による凶作が繰り返されていた
・農民自らによる生産技術の向上を目指した
・年寄り達が巡回教師となり、品評会、種子交換会なども行った
・これが明治11年(1878)の第1回種苗交換会につながった(石川理紀之助が尽力)
・明治26年(1893)、庄内で『亀の尾』が発見(選抜)された。これが冷害に強く当時の3大品種の一つになった。他は『神力』『愛国』
・大正10年(1921)、亀の尾4号と陸羽20号の交配から『陸羽132号』が誕生
※農事試験場の陸羽支場:現在の大曲にある東北農業研究センター大仙研究拠点
・『陸羽132号』が多収、耐病性、耐冷性で優れていて広範に作付けされた
※これが東北における稲作の安定性と市場評価を非常に高めた

この後、1975年に福井県農業試験場でコシヒカリ/奥羽292号の交配が行われ、その種子を秋田県農業試験場が譲り受け、その雑種第7代種子『秋田31号』が『あきたこまち』(1984年命名)である。
ちなみに、あきたこまちは交配種子による育成のため種苗法による品種登録はされていないそうだ。

農家が自ら品種改良、生産技術、乾燥技術などの向上を競い合い、情報交換を行って市場に出て行き実績を作ったからこそ後追いで行政が人、モノ、金で応援して学者、技術者も頑張ったのだろう。最初はやはり民間なのだ。

一次産業ではコメ以外にも秋田の先人の歴史には学ぶものがある。
明治12年(1879)初代の秋田県議会議長に鷹巣町出身の成田直衛氏(32歳)が就任した。成田氏は久保田藩の郷士(下級武士)だったが明治になって福澤諭吉の門下生となり洋学を学び、法制学者細川潤次郎の門下生として政治経済学を学んだ。KOボーイだ!
秋田にUターン(^^)して手をつけたのは政治ではなく畜産だった。
田代町の平滝台に230町歩の官有地を借り受け牛馬併せて110頭余りを放牧し繁殖したという。
稲作に適さない場所だったのかもしれないが、洋学つまり世界の情報に触れた成田氏は稲作よりも気候に左右されない、単位面積当たりで生産金額の大きなものをわかっていたのではないだろうか。もしかすると稲作などは耕作面積の大きな国に敵わない、畜産こそ狭い島国日本に適したものだと確信していたのかもしれない。(まさかTPPを見越していたわけではないだろうが(^^))
おそらくこの頃は食料としての牛馬というよりも農耕補助、交通機関の動力としての牛馬の需要があったのだと思うが、さらに継続していれば食料生産としての畜産も考えただろう。
そして、生産効率の良い豚を選んだはずだ。牛馬は1回の出産で1頭か2頭だが豚ならもっと効率が良い。だから世界中で食肉としては豚肉がメジャーなのだが。
成田氏が事業の後政界(県議会の後、衆議院4回当選)に行った理由は不明だが、自ら産業振興を実践して見せているのが明治という時代ならではのことかもしれない。
ここでもやはり始まりは民間なのだ。

ロクな大学を出てもいない(=大して勉強もしていない)、自ら事業を行ったこともないようなボンクラ達の名誉職の集まりの現在の県議会など比べる必要も無いが、秋田の再生にはこういう人間が出てこないことにはどうしようもない気がするではないか。
現在の農家は農協に絡め取られ、国や県の公定価格的なものに依存し、補助金だの技術指導などに依存し結局自らの自由度を失ってしまいTPPで予想される(らしい)『競争』に怯えている。
先人に学んでどこかハチャメチャにやったモン勝ちで、行政などは少し突き放す程度でちょうどいいのかもしれない。

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『あきたこまち』は実は福井県生まれ・・・とはいうものの への3件のフィードバック

  1. 私も農業には素人ですが、・・・・
    戦後の農地開放で、農業がダメになったから仕方ないと感じています。農地開放以前の百姓(農家の意味ではなく、武士、職人、坊さん以外の職業という意味で使用。昔の豪農は商人を兼ねていた。)ならば、人を沢山使っていたので、儲かる作物だとか、この時期にはこの作業をとか、研究したり考えたり出来る人がいるのですが、現在の個人経営者ではなかなか難しいでしょう。農業も科学が必要だと思うのですが、それを研究している農家がどれくらいいるのでしょうか?

    GHQの初期メンバーには社会主義者もいたらしく、戦後の農地開放は、財閥解体と同等の効果を狙った面もありますが、社会主義者の平等主義の実験の面もありそうです。

  2. 茹で蛙 より:

    確かに農地解放が農業をダメにしたという見方はアリかもしれませんね。
    でも農地解放の主目的は農業振興ではなく、共産主義の力を削ぐ反共目的だったことがGHQなどの資料でも明らかになっているそうです。(日本側の提案をGHQが蹴飛ばしてGHQ案で進んだ)
    奴隷に近い状況の小作農は必然的に共産主義シンパだったわけで、これを若干の耕作地を持たせて零細な経営者側に立たせることが反共だったわけでしょう。
    農協法、農地法、農振法にメスを入れない限りTPPがあろうがなかろうが日本の農業は再生だの振興だのはあり得ないと思います。
    元小作人達がそれらに声をあげたりすることは無理で、代表を国政に送り込んでもその代表が上記3法の既得権益組に巻き込まれ改革などは進まない。
    いつまでたってもこれの繰り返しですよね。

    • 茹で蛙さん、改めて、「授業では時間切れになった日本史」を引っ張りだしたところ、確かに反響目的だったことが書かれていました。ということは、高校日本史あたりでもそう書かれていそうですね。失礼しました。

      農地法にメスと言うのは同感です。農家の子供で、実際は都会に住んでいて農作業は全く行っていない(田舎の農家に収穫の何割かを約束して耕作させている)人もいますが、農地ということで土地税は安いままです。このような農地をもっと流動化させる方法があればいいのですが。

      農協法、農振法はよくわからないので、コメントは控えます。

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