大勢の老人に1万円よりは少ない子供に5万円を

ニューヨーク、ロス経由で帰国。欧州でもそうだが、9.11のせいかトランジットの空港では心なしか警備や自動小銃を抱えた兵士が多い気がしたが、やはり今の世界情勢を考えればどこでテロが起きてもおかしくないし、それなりの理由や背景がすぐに思いつくだろう。
成田に着いて体調不良の旅客に呼びかける声は煩いものの、特に警備が厳重になっている印象はないし、相変わらず『いざという時に役に立つのか?』という武器も持たない民間警備員の暢気な顔の連中が多いのは平和日本の象徴か。

それにしてもウィーンを出るときも見かけたエコノミーのセキュリティチェックの列に並ぶ年金受給者と思われる集団。何を思ったのか空いているこっちのビジネスの列に並んで突っ返されるオバチャンも。
ロスでも別の似たような集団がいたが、筆者もリタイアしてエコノミーに並ぶ時が来るだろうか。いい歳になったらそれこそファーストクラスで旅をしたいものだ。まあ、そんな金は残念ながら無いだろうからパスポートの要らない国内旅行が身の丈にあっていそうだ。
それほど筆者と歳の差も無さそうなああいう年金受給者集団を見ると日本はおかしいとつくづく思う。おそらく年代的に年金などさほど払ってきていない連中が法律と既得権によって受給した年金(や自分の貯金)を我が物顔で海外で使う。もっと子や孫の世代のために使え、せめて国内で消費しろと・・・。

いつだったか生物学者が言っていたが、日本は既に生物社会学的には滅亡に向かっていると。
人間社会を維持するための優先順位は、
子供>若年女性(出産)>若年男性(労働)>中年男性(経済・政治)>>>>中年女性、老年男女(教育・文化)
のはずであるにも関わらず、日本では数の多さ(=選挙の票)によって正しい論理的帰結を導かれずにあらゆる分野でちょうど真逆の施策がまかり通っている。
老人が年金で海外旅行して楽しんでいる一方で、日本では6人に1人の子供が貧困層でまともな教育が受けられない状況はやはりどこか狂っている。
一族の中で突然変異的に勉強嫌い(頭悪い?)の首相でさえ親が金持ちなら成蹊大くらいは入れるのが現実であるならば、全ての日本人の子供は希望に応じて高等教育あるいは実践的な専門教育を無料に近い形で受けられる環境を作るべきだと思うが(その前にFランク大学などは不要だが)、そんな金は砂に水を撒くように老人福祉に向けられる。
OECDのほぼ最下位の教育予算の国が『老人大国』ですと誇らしげにしているのはとんでもなくセンスの悪い自虐ジョークだ。
かといって、筆者は左翼的な富の再配分を善しとするものではない。

『子や孫に小遣いをやれる年金を!』というならまだ微笑んで見ていられるが、とにかく自分たちの生活ができる年金や医療福祉をという主張には我欲以外のものを感じることはできないしシンパシーも感じない。
一体、何歳まで老醜を曝け出して生きるつもりなのか。
団塊の世代とは上品な見方だろうが、筆者に言わせれば戦後の(それこそ生物学的な)反動によって生み出された『仇花の世代』に過ぎない。ただし、その『数』が多くのものを生み出し、変え、そしてダメにしてきたことも事実だろう。

やはり数で負けないように若年世代が声をあげ、選挙の投票に行き、自分たちのリーダーを生み、ロビーを続けない限りこのまま滅亡を座視することになる。
そのためには、団塊の世代が一過性のものであるように、一過性の世代間闘争があってもやむを得ないし、筆者は団塊の世代と対峙する側を応援したいと思う。子や孫の世代を応援することこそリレーのバトンを渡すそれぞれの世代の責任と存在証明だろうに。
老醜を曝け出し、介護だので自分より下の世代の人間の人生をスポイルすることの愚かしさやそれによって失われる本来は別で生かされるべき活力・成長をもったいないと思わないことが当たり前となっている現状は恐ろしい。

長幼の序だの敬老だの儒教に影響を受けた思考停止をしてはいけない。現代でも人間国宝などの道を極めた人物などは尊敬に値するが、ロクな年寄りは滅多にいない。
本当に尊敬すべきは先達は明治時代の『現代日本の枠組み』を作り上げた名も無い日本人達といくつかの戦争で散っていった人々だろうと思う。

砂に水を撒くような年寄りへの金を子供・孫達に向ける仕組みは何とかならないものだろうか。
さもないと日本は無くなっちゃうぞ。

※別に1万円、5万円という数字に意味は無い。

 


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