近代以降の秋田は”移民”が活躍した内国植民地か?

しばらく前から秋田県の明治以降の歴史についていろいろな資料や文献を探してつまみ食いのように読んでいるが、なかなか表に出てこない事柄があり気になっている。
しかし、あれこれ読んでいると現在の秋田県の面妖な施策や県民性といったものにどこか通じているかのようなものもあり勝手に想像(妄想?)の翼を広げている(^^)。


東京生まれの筆者が言うのも妙ではあるが、個人的な印象では秋田県の県民性は他県他地域に比較して郷土愛のようなものをあまり感じさせない。
例えば、山梨などは未だに普通の人が武田信玄に『公』を付け、その功績を讃える空気があるし、西日本のあちこちの有名な城のある街では築城した人物について様々なエピソードが残り、語られることが多いが秋田では歴史に造詣のある人間くらいしか佐竹に『公』を付けて呼ぶ習わしは無いし、歴代の藩主の銅像が街の中にあるということも無い。

これは関ケ原後の転封による外様大名であったことや、秋田という原野に近い地域を開発することで、引き連れてきた過剰な(石高に比して)家臣団を食わせるために汲々としていた佐竹氏歴代が武田信玄のように地元の領民を大切にする余裕が無かったたため殿様に対するリスペクトや親近感が無く、単なる藩主としての半ば強制的な『お上』扱いの空気しか無かったことによると思われる。
経済的な余裕が無いため後世に残るような寺社仏閣、庭園、その他の社会インフラを構築する余裕も無かったのは菩提寺の天徳寺の質素さからも想像できる。これは本家だけでなく分家も皆そうだったのだろう。佐竹以前の秋田氏(安東氏)に対してはどうだったかはほとんど資料が無いため、単なる狭い地域(沿岸部)の豪族、国衆程度の認識だっただろうと想像するしかない。
秋田市の狭く、クランクの多い道は城下町風ではあるが、町割りは防衛を意識したものであることは理解できるものの商工業の発展を優先したものとは言い難い。旭川の流れを付け替えたのは堀とともにやはり防衛上の理由であり、農業を意識した利水・用水のためとは言えないそうだ。

そんな江戸時代を経て、明治になり官選知事が着任後は秋田市だけは急激な発展を見たようだが、秋田市以外については鹿角・大館あたりの鉱山関連の街ぐらいしか近代的な地域は存在していなかったようである。イザベラ・バードの『日本奥地紀行』などを見ても県南部の院内から大曲・角間川あたりまでは横手の豪農が紹介されているくらいで、民衆は裸同然で暮らし非文明的な様子が描かれている。土崎湊以北の地域も似たようなものだったらしい。
その秋田=(秋田市+鹿角・大館)が秋田県という広大な地域として発展した近代は実は地元の住民ではなく“どこかからやってきた人々”の努力によるものというのが筆者の推論だ。

食糧増産という表向きの名目で実施された八郎潟干拓は実はオランダへの戦後賠償と農家の次男・三男の余剰労働力吸収が目的だったが、それ以前から国策で長期間に渡って実施されていたのが、田沢疎水と仙北・大仙に跨る仙北平野の開拓である。
雄物川、玉川、出川に囲まれた15,000haを超える秋田県最大の穀倉地帯は自然に出来たものではない。扇状地に広がる原野は原始林で土中には大きな玉石がゴロゴロしていたそうで、頻繁に3つの河川の氾濫で手の付けられない地域だったそうだ。
ここに、昭和12年東北振興計画の一つ(もう一つは青森県三本木地区)として田沢湖を水源とする玉川の河水統制計画に基き、総工事費9億3千万円で発電の放流水を利用する30kmに及ぶ導水路を構築する田沢疎水国営開拓建設事業(昭和12年~37年)が開始された。
元々田沢疎水は藩政時代から16世紀に構想と一部工事が少しづつ行われ始めたようで、その工事の一環で1673年頃、玉川の水を引くため下堰を開削中に発見されたのが秋田県唯一の国宝『線刻千手観音等鏡像』(大仙市、水神社所蔵)である。

この田沢疎水と畑地灌漑と開田事業の際に入植した戸数が396戸だったそうだ(第29回国会 国土総合開発特別委員会 第5号)。当時の既存の農家は仙北地域で約5,000戸だったそうだから396戸は大きなインパクトがあったと思われる。
この入植者は一体どこからやってきたのか・・・。
さらにこの田沢疎水は、
国営第二田沢開拓(昭和38年~44年)
国営かんがい排水仙北平野地区(昭和44年~60年)
国営田沢疏水農業水利(昭和54年~平成元年)
と続く。
農業支援というカテゴリは実は土木工事が本質であり、このあたりに昔から農業県秋田が実は土建屋体質秋田であることが伺える。

別の資料では最初の入植者は9地区323戸という記録が残っているそうだが、地元の既存農家にはそのほとんどが『東京都からの入植者』と説明されたようだ。
実はそのあたりの記録がどうしても探せない。323戸といえば常識的には1,000人規模の人数だろう。そんな数の人間が昭和初期の文明的な東京を離れてわざわざ原野に入植するだろうか。朝鮮人のような外国人かどうかは不明だが、間違いなくいわゆる被差別部落あるいはルーツが新平民といった人間達だっただろう。
こういった国内での入植・開拓事業は秋田だけではないが、いわば内国移民が活躍したことは間違いなく、“米どころ仙北”はそういった入植・開拓者によって過去80年程で作られたものといって差し支えないだろう。

また、秋田県の場合は鉱業が盛んで歴史的に三菱、古河、同和の企業植民地的な地域もあり、そこで鉱山労働者として働いていた人間達がどこからやってきたのかは不明なところが多い。戦時中の徴用で連れて来られた(あるいは日本に稼ぎに来た)支那人、朝鮮人は多数だが、県南では院内銀山と院内の鉄道の隧道工事も多くの労働者をどこかから連れてきているし、非常に多くの事故死傷者を出している。
これらの鉱山、隧道工事の労働者達もまた秋田の近代化の名も無い主役達であることは間違いないが、その鉱山、隧道工事に区切りが着いた時点ですべてどこかに帰っていったとは考えにくい。むしろ、職業を変え住み着いたと考えるのが自然だろう。
筆者の知人でも一代で薬局、薬品卸を創業した人物(故人)がいるが、生まれは某鉱山の労働者住宅だったと直接聞いたことがある。

秋田、特に県南は朝鮮や支那にルーツを持つ人間が他地域に比べて多いと聞くが既に戸籍上もそれを検証できないとも言われる。
現在の『殿様』も家系は清和源氏につながる家系なのだろうが、家系と血統は別であり、特に佐竹北家は2度断絶していて、父系ではなく母系の流れである。
そうなると、家系図でよくある『女』などと記述がある場合には血統としては怪しげなものになる可能性は否定できない。
そもそも血統で1,000年も遡ったら日本人の大多数が清和源氏か桓武平氏の流れかもしれない。それでも日本人は日本人である。

何百年も昔の話ではなく、過去100~150年ぐらいを見ても近代秋田を作ったのは実は秋田のnativeではなく、むしろ”どこかからやってきた人々”が主体だったのではないかと推察するのである。
教育現場で秋田の郷土史(特に近代史)を詳細に扱わないことが郷土愛醸成が不十分になる理由の一つとも言われるが、実はあまり詳細には教えられないあるいは教えたくない側面が多いのだろう。
また、県南の自治体で外国人の職員採用が多いことや、説明不足で意味不明なソウル便への執着といった『現象』伝統的に左巻きが元気なことも実は秋田の近代化の過程とどこか根っこでつながりがあるのだろうと筆者は想像するが、結論付けるにはまだあれこれ資料・史料を探してみたいと考えている。

某所でトランジットして飛んできたが、ビジネスクラスにわずかに6人と実に静かで快適な便だった。そろそろ日本に着くが、この航空会社はちょっと贔屓にしようか・・・。

 

ブログランキング・にほんブログ村へ 
(blog rankingに参加。ご協力を。Click it!)

広告
カテゴリー: 秋田の歴史 タグ: , , , , , , , , , , パーマリンク

近代以降の秋田は”移民”が活躍した内国植民地か? への14件のフィードバック

  1. ブルーベリー より:

    久保田藩は一揆が合計87回もあり、これは盛岡藩に次いで2番目に多い。
    地頭(土地を有する藩士)による搾取が酷く、農民は商売する事を禁じられ、
    商売人は税を課されて厳しい規制を受けていた。

    少なくとも、佐竹が来てからは役人天国で、農民や商人は生きにくい土地でした。
    昔から北朝鮮みたいですね。

    • argusakita より:

      そうですね。江戸時代の一揆については私が見た資料では、上から南部藩133回、久保田藩87回、広島77回、金沢70回、徳島64回、宇和島63回ということで、幕府は一揆による大名の疲弊を狙った部分もありそうです。
      南部藩などは南部三閉伊一揆(宮古や大槌町のあたり)で『勝利の証文』を勝ち取ったくらい盛んだったようです。しかも強訴の先は南部藩ではなく隣の伊達藩だったということで難しい領民だったようですよ。

      秋田は江戸時代以前、太閤検地でも不平が高まり、仙北の一揆ではあの戦国武将大谷吉継が鎮圧に来ているようです。
      近代以前から地元民は本来結構(今風に言えば)過激派だったということでしょうが、近代以降は『別のモノ』に支配された格好ということでしょう。

      >少なくとも、佐竹が来てからは役人天国で、農民や商人は生きにくい土地でした。
      >昔から北朝鮮みたいですね。

      うかつにも吹き出してしまいました。(^^)

  2. ばんそうこう より:

    「東京都からの入植者」というのは多分ウソなんでしょうね。それこそ「鉱山から」なんじゃないんでしょうか(←これは推測)。農村部の人間はヤマの人間に対して偏見を持っていたと思います。実際、異文化ですしね。近世初頭の鉱夫は西日本出身者が多かったようです(キリシタンも多かったらしい)。「県南は朝鮮や支那にルーツを持つ人間が他地域に比べて多い」というのは初耳ですね。何かの間違いでは? 「伝統的に左巻きが元気」というのはおっしゃる通りで、戦前は小作争議の数が日本で一番多かったはずです(確か2位が新潟)。百姓一揆が多いのと同じ理由で、貧富の差が大きく、食えない人が多かったのでしょう。腹いっぱい食えるというだけで軍隊に入った時代ですから、自作地になるのだったら喜んで開拓地に入ったでしょう。佐竹氏に対するリスペクトがないというのは、その通りですし、それは意外と普通のことだと思います。ソウル便に対する執着は確かに私も完全同意。「何で?」と思います。大正年代の地形図などをみると、確かにまだ田沢疎水はひかれていないようで、扇央部は林野・桑畑が多いです。ただ、扇端部や後背湿地(湧水地帯以西)は水田ですから「米どころ」ではあったと思いますよ。つくり酒屋は江戸期から多いですし、池田氏など大地主は穀倉地帯でなければ成立しません。地主の多く住んでいる町は昭和の合併のときは、小作人の多く住んでいた村から合併先としては嫌われたのですね。六郷・角間川・角館・増田あたりでしょうか。秋田の人は郷土愛が薄いというのはおっしゃる通りで、とても残念なことですね。愛し方も下手なのだろうと思います。

  3. ばんそうこう より:

    昨日は「第29回国会 国土総合開発特別委員会」の資料を読まないでコメントしてしまったのですが、昭和33年時点ということを考えると、樺太や満洲などからの「引揚者」ではないか?と思いますが、いかがでしょうか。まだ岸内閣のころで高度経済成長前ですから、相当に食糧難だったのではないかと思いますし、菅官房長官も引揚者だったと聞きます。確か、秋ノ宮村で最初にイチゴを栽培したのが官房長官のお父上ではなかったでしょうか。東大総長だった佐々木毅先生も、戦後しばらくは都会にくらべて秋田の方が豊かな面があったとおっしゃっていました。食糧と燃料があれば、最低限の自給自足生活はできるわけですから。お父上は千屋村の村長を務められ、村で最初に乳牛を飼ったと伺っています。「仙北地域で農家約5000戸」というのも、奥羽山脈東麓の関係町村だけの数字だと思います。私は昭和37年の生まれですが、近くに樺太からの引揚者が住んでいました。私の幼少のころはまだモータリゼーションが本格化するちょっと前だったので、鉄道駅付近は運送の仕事などは結構ありましたし、今では考えられませんが、子どものいない家を探す方がたいへんでした。

    「土建屋体質」という言葉がありましたが、そもそも水田稲作農耕なるものが土木工事をともなうものであることは登呂遺跡の頃から変わらないのであり、別に秋田県に限った話ではありません。環濠集落というのは、まさに土木工事を前提にしています。

    それから、「南部藩133回、久保田藩87回、広島77回…」という件の百姓一揆ですが、これが江戸期260年を通じてのものであるということを考えると、単純にものすごく多いとは言い切れません。260年で全国計3,000件ということは1年に均せば10件強ということになります。それも飢饉の年などに集中しています。南部・久保田は天明・天保で食えないときに蝦夷地警備とかやらされていますからね。相対的に多いのは、仕方ない面もあります。

    下のURLは小作争議件数です。大正年代は比較的少ないですが昭和に入ると軒並み2,000件以上(1年で)です。最多の1935年(昭和10年)はその年だけで6842件です。これにくらべれば、江戸時代の百姓一揆がそんなに多かったのだろうかという気がしてなりません。もっとも「争議」だから必ず暴力沙汰をともなったかというと、そうではないのかもしれませんが。
    https://www.teikokushoin.co.jp/statistics/history_civics/index09.html

    じゃあ、昭和初期はよほどひどい時代だったのかというと、現代中国の暴動発生件数は1年で20万件(!)ということですから、やはり物事は相対的にみなきゃいけません。
    http://matome.naver.jp/odai/2140180921003296301

    イザベラ・バードの件、これは確かに県南在住の者としては心穏やかではありませんが、しかし、県南三郡の地域が米沢盆地や久保田城下町と違うのは、戊辰の戦いの際、戦場になっているということです。会津にせよ箱館にせよ、基本的には武士同士の戦いで軍事施設の取り合いだったわけですが、ここでは百姓が巻き込まれている。それも藩庁の判断で。久保田城下町は無傷なのですから、多少の遺恨はのこるでしょう。角館はたまたま戦災にあっていないから武家屋敷群がのこりましたが、ここは近代化が遅れたからこそ残ったのです。私の故郷はそれくらい政治の恩恵にはあずかっていないのですね。まあ、悲しいですけど、極力、人のせいにはしないで自分でやれることをやりたいと思っています。ガンバルゾ。

  4. ブルーベリー より:

    大正二年に作られた旧軍による秋田連隊の性格を記した報告書。
    http://plaza.rakuten.co.jp/kawamurakent/diary/200809130000/

    「県内有望なる各種事業は皆他国人の占有する所」
    「勤勉の美風に乏しく生活不規則、山形民に比すれは雲泥の差」
    「服装最も華美なりとの評」
    「飲酒の癖あり」
    「進取力に乏しき」

    明治・大正時代は鉱山などで発展していましたが、殆どは他県の資本でした。
    秋田人は技術もなく勤勉でもないので、他から次男三男を掻き集めて来たのだと思います。
    しかし、家族単位では無く、短期間で現地化したのかもしれません。

    • ばんそうこう より:

      残念ながらこれらの指摘は今でも当たっていますね。見栄っ張りで、周辺県にくらべればよいクルマに乗ってます。名物も一過性の祭り・イベントなどフローなのばかりで、ストックの方はたいへん貧弱。つくったかと思うとそれ自体が祭りなので長年経つとバッド・センスが際立つ感じ。まあ、それも含めて何とかしないといけないでしょう。震災と原発事故で避難命令の出ている福島県よりも人口が流出していますからね。

  5. 鉱山関係者は、山がなくなると、サーっといなくなりますよ。大館市では花岡がそうでした。一気に団地がカラになったため、古い団地はどんどん取り壊されて更地になったりしました。鉱山作業員は掘るしか能がないため、次の山を求めて他の地域に移動するしかありません。

    鉱山が無くなった時のことを考えておきなさいと鉱山関係者に言われた後、業態を変えようと頑張り、現在生き残った業者が東光産業のようですね。そう出来なかった業者は消えるだけでしょうね。

    大館市はそれに花岡事件があったため、(証拠を消そうという意識が働いたのか)異常に寂れた点がありますけど。

    農地に縛られる農民とは違い、鉱山は山師ですから、いなくなるのも早いと思います。

    • argusakita より:

      鉱山労働者の移動は確かにそういう特徴がありますが、日本中があちこちで採掘していた明治・大正、せいぜい昭和20年代後半くらいまでだと思います。
      石炭を始め各種の鉱物資源の輸入が増えて鉱山そのものが無くなっていったことを考えると労働者の吸収は別の産業だろうと推察しています。
      秋田も黒鉱全盛期の人たちが大館、北秋田、能代と消え去ったわけではないでしょう。
      やっぱり土建屋かな・・・。

      東光産業(鉄工やSI事業)の他に戸田鉄工さんもありますが、今は台湾と商売されていますね。

      • ばんそうこう より:

        1987年の資料ですが、これをみると、グループ内の「川下部門」に斡旋・配置転換が多かったようですね。土建屋は不定期の仕事が多いでしょうから、どちらかというと、兼業農家の受け皿のような気がします。福利は鉱山の方がむしろ良かったんじゃないでしょうか。(芝居小屋があるくらいですから。)

        http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/57/rn1987-198.html

  6. ばんそうこう より:

    argusさんの御見解、自ら「妄想」と書いていらっしゃいますから何ですけど、いささか妄想が過ぎるのではないかと思います。私も技術オンチなので、工学系の人からすれば、相当ヘンなことを言っているでしょうからアレですが、あまり自信もってヘンなことを書かれると原住民としては困ってしまうののですね。しつこいと思われるかもしれませんが御容赦を。

    ネットで「秋田」というと、「秋田の人ってロシアの血が入っているから美人なんでしょ」とかマジメに言われることがあって辟易しますが、「県南人には朝鮮の血が入っている」とか「新平民が東京から連れてこられた」とか一体何の話かな?と思います。ロシア人の件もそうですが、誰かがそういうデマを流す人がいるから真に受ける人もいるのではないかと思います。そういうことをargusさんに吹き込んだ人は誰なのかと思います。「いつ」「だれが」「何のために」がない話には乗れないのですね。もし、あれば教えていただきたいです。

    戦前の日本は割と正統な近代国家、法治国家だったはずで、何の法的根拠もなく朝鮮人・新平民を国家が「強制連行」みたいなことはできないと思うのですね。できるというのなら、それこそ「従軍慰安婦の強制連行」などという馬鹿げたことも認めなければいけなくなります。戦争末期の「赤紙」だって徴兵経験のある人のなかで軍事訓練などに参加した人を対象に発せられたもののようで、「国家の強制性」みたいなことを過度に強調したい人たちの論法にからめとられてしまっているんじゃないでしょうか。それにまあ、「新平民=貧民」でないことは、東京の方だったら知らないはずがないんですけれどね。彼らは墨東地区あたりで皮革製造や食肉解体などをやっていたのではないんですか? 一家破産などで地方からスラムに流入してきた人たちとは全然出自が違うでしょう。むしろ、そういう貧民を雇用して「(伝統的に)人の嫌がる仕事」を続けてきたのが被差別民だったのではないでしょうか。

    御存知かもしれませんが、幕末期に日本を訪れた外国人たちは決まって日本の「混浴」について驚き、それを記録しています。ペリー随行の画家は絵まで描いています。女性の「お歯黒」も奇異な風習と思っていたようです。いまはそういう風俗風習ありませんけれど、当時はそれが当たり前だったのであり、別に野蛮とか非文明とか当人は思っていなかったと思います。『古代への情熱』で有名なシュリーマンも「日本人は、家の中でも路上でも、ほとんど裸で暮らす習慣を持っていて、誰ひとりそれがデリカシーに欠ける行為だとは考えない」と書いています。これは、江戸での話です。だからといって野蛮とか非文明とか言えるでしょうか。同時に、日本人の清潔好きなところ、木彫のすばらしさ、玩具が豊富で安価なことなども書かれています。

    シュリーマンは「文明」ということについて、「もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。…」と書いています。しかし文明を精神性ということで理解するならばキリスト教的美徳が定着しないから云々と続けています。「昭和前期の文明的な東京」はどちらの意味なんでしょうか。

    田沢疎水の件は私の地元に近く、祖母の実家は受益者にもなっているはずですので「東京都」は私自身も引っかかってちょっと調べてみました。1970年代の『横手盆地研究』という雑誌に大坂昭治という方が書いたものを読むと、昭和18年に角館中学校・角館高女の生徒や東京からの疎開者による勤労奉仕がおこなわれたが疎水周辺の本格的開墾は戦後の国営事業を待たなければならなかったとしてあります。

    疎水による水田化がもしなかったならば山形盆地・津軽平野・花輪盆地・あるいは甲信の諸盆地、横手盆地の南部(横手・十文字・湯沢)のように樹園地になっていたと思います。水持ちがわるいということは水はけがよいということですから。今となっては水田より樹園地の方がむしろよかったということかもしれませんが。

    ここで「土建屋体質」をあげつらうのもいささか短絡的だと思います。「土建」といっても「普請」といっても同じですが、土建がなかったらいまでも東京は焼け野原のままでしたし、普請がなかったら江戸周辺は寒村だったはずですからね。「昭和前期の文明的な東京」が土木建築で成立していたとは思えないのですが、いかがでしょうか。

    ただ、あらためて地元のことを調べるよい契機になったことは確かなので、そこは感謝申し上げます。また、歴史に関してはチョットと思いますが、それ以外の点についてはargusさんの御見識の高さにはいつも驚嘆し、尊敬の念をいだいていることも申し上げておきます。

    • argusakita より:

      妄想と書いたのはコメントは特に欲しくないからですが・・・。(^^)

      文献以外の根拠の一部は、母方の親戚連中に県南の代々の医者・歯医者が何人かいて、その治療経験等に基づいた話を聞いた上のものですが、『そういう人々』が少なくなかったというのは事実のようです。
      東京からやってきたとされた人間達の記録は旧中仙、太田、仙北あたりの役所ででも調べてみてください。本当に東京からなのか。
      その上での反駁なら妄想は取り下げましょう。ご自身で自分のルーツを壬申戸籍くらいまで遡れたらいろいろ見えてくるかもしれませんよ。

      強制連行で多くの場合国が関与したなどとは思いませんし、そんなこと書いていないつもりですが。
      秋田の鉱山などはほとんど旧財閥系のものでいわば民間。しかし時代が時代で国家権力と一体に近いものはあったでしょうね。
      民間で集められた低賃金の労働者が復員者、二男・三男ばかりだったということは逆に考えにくいのでは?

      土建屋体質をあげつらってはいません。事実そうだろうということと、それがなかなか変わらないなと感じますが。
      土木事業や農業は産業革命以前古来からの重要かつ基本的な労働ですから卑下したところで何の意味もなく、問題はそこから精神的な土壌が変わらないことがいろいろなものの阻害要因になっているだろうということです。

      少々短くポイントをまとめていただけるとありがたいのですが・・・。

  7. ばんそうこう より:

    付き合っていただき、ありがとうございます。いろいろと納得できないもので。

    鉱山と疏水は切り分けないといけないと思います。その「治療経験等に基づいた話」というのは、田沢疎水地域なのでしょうか。それとも鉱山関係なのでしょうか。

    田沢疏水に関していえば、argusさんがリンクしてくださった資料は、昭和33年(1958)の「第29回国会 国土総合開発特別委員会」であり、そこには確かに「現在までの事業進捗率は約90%で、一部補修工事を残し、ほとんど完成し、すでに396戸の入植者を扶植し、一方、5300戸の既存農家に対し適正規模の増反が行われ、年年米石換算約5万石の増収をもたらし…」とあります。その前に「昭和12年(1937)東北振興計画の一理として、青森県三本木地区とともに国営事業として採択…」という言葉はありますが、「採択イコール入植」ではないわけですよね。

    したがって、「396戸」は戦争をはさむ約20年間のどこにあたるのかは、argusさんの資料だけみれば不明です。

    一方、大坂昭治「田沢疏水の水利地理学的研究」(『横手盆地研究』第6報、1979)には文政8年「御堰」から始まる詳細な年表が附されており、それによれば、
     昭6(1931)ー毒水排除に失敗
     
    昭11(1936)―開墾計画の樹立
     昭12(1937)―工事二着工
     
    昭13(1938)より4年間除毒工事
     昭15(1940)―玉川の水を田沢湖に導入
     
    昭18(1941)―角館中・高女生、東京からの疎開者らによる勤労奉仕(6月から8月にかけて延べ約4,000人)
     昭19(1944)―事業中断
     
    昭22(1947)―国営事業として本格化。右岸水路取水施設完成
     昭23(1948)―除毒工事竣工
     
    昭26(1951)―初通水
     昭28(1953)―本格的水田化の始まり(表土の礫と底土を逆転させる作業の開始)
     
    昭31(1956)―開田に着手(ブルドーザーを使った原野・砂礫地の開田)
    ということです。

    総合すれば、開墾の方は、勤労奉仕もあったが戦前は除毒もあって遅々として進まなかったこと、その本格的なはじまりは戦後になってからであることがわかります。本格的な入植は、常識的にいって1953年以降ではないでしょうか。朝鮮人・シナ人が入り込む余地はないと思います。「東京都から」というのは私が聞きたいほどであり、ソースを教えていただければ幸いです。ただ、戦前は長子相続で、私の祖父の兄弟などは全員東京に出ていましたから、そういう面ではありうることで、「引揚者」「疎開者」を「東京都から」で一括して説明するのは、いかにも雑駁で木で鼻をくくった秋田人らしい応答のようには感じます。少なくとも「そのような人びと」「かき集めて」の方が考えにくいです。自分のルーツは明治12年の地券を未だ持っていますから、根っからの土人であることは間違いないです。郷士だったみたいで、刀や槍はたくさんあったらしい。それよりも役所で人様のルーツを調べるのは可能かな?と思います。それはいかがなものなのでしょうか。

    鉱山関係に関してはぶっちゃけわからないことが多いです。戦中期の岩手県釜石鉱山には結構な数の朝鮮人がいたということは私も勤労奉仕で同地へ行った叔母(故人、1928生)から聞きました。花岡事件(1944-1945)を考えれば、多くの中国人が鉱山で働かされていたのも事実でしょう。ただ、これらは戦争末期で、日本の男子労働力が不足していたときの話ですね。国民総動員令にもとづく労務動員計画に未婚女性、学生、朝鮮人労働者が付加されたのが1942年、戦争捕虜・受刑者が加えられたのが1943年、国民徴用令の適用外だった朝鮮人に適用されたのが1944年ということのようです。それを考えれば、ほんの数年間でしかありません。そのまま現地に定着した人が多いとは考えにくいです。それ以前に自発的に日本に来た人、それ以後の朝鮮戦争避難者はもちろん日本全体では少なからずいるでしょうし、自発的に来た以上は定着している可能性が高いと思います。ただ、県南が「他地域にくらべ」割合として多いとは思えません。むしろ、県南は北方漁業など出稼ぎの多いところだったわけでしょう。移民は入って来るよりも圧倒的に出ていった方が多いはずです(近世は逆ですよ)。

    「他地域にくらべ」の根拠は何でしょうか。

    • argusakita より:

      お疲れさまです。
      ずいぶんとご興味をお持ちのようで、1日2日じゃなく、山形の県北と岩手の西部も合わせてもう少しあれこれ調べてみてください。
      きっと同じような結論めいたものを得ると思います。
      残念ながらネットに載せるわけにはいかない資料などもあり、議論(推論?)は深まらないと思います。
      記事に書いたように、私にとっては趣味の歴史探訪ですから、
      >結論付けるにはまだあれこれ資料・史料を探してみたいと考えている。
      が私のスタンスです。

  8. ばんそうこう より:

    自分の地元ですから興味があるのは当たり前ですね。何だかうまく逃げられてしまったような気がしてならないのですが。事実認識として、下の御見解で訂正を要する箇所はないのですか? 

    >別の資料では最初の入植者は9地区323戸という記録が残っているそうだが、地元の既存農家にはそのほとんどが『東京都からの入植者』と説明されたようだ。
    >実はそのあたりの記録がどうしても探せない。323戸といえば常識的には1,000人規模の人数だろう。そんな数の人間が昭和初期の文明的な東京を離れてわざわざ原野に入植するだろうか。朝鮮人のような外国人かどうかは不明だが、間違いなくいわゆる被差別部落あるいはルーツが新平民といった人間達だっただろう。
    >こういった国内での入植・開拓事業は秋田だけではないが、いわば内国移民が活躍したことは間違いなく、“米どころ仙北”はそういった入植・開拓者によって過去80年程で作られたものといって差し支えないだろう。

    「差し支えないだろう」とおっしゃいますが、おおいにありますよ。入植者396戸に対し、増反した農家(しばらく負担金を払っていたはずです)は5,300戸、疎水にかからない増反なしの農家はそれ以上いるわけですよね。何だか最初から結論があって、それに無理やり持っていこうとしていませんか? 

コメントは受け付けていません。