キチガイの犯罪だけでは片づけられない

ロシア以外にも相模原の凄惨な事件は各国メディアで『あの安全なはずの日本で・・・』という驚きを持って捉えられているように見えるが、次第に犯人の背景などが明らかになってきて、どこか起こるべくして起きたような印象を持たざるを得ない。
法治国家を標榜する日本では、相手がどんな対象であれ、理由はどうあれ、人を殺せば殺人罪で裁かれるわけで、問答無用に犯人は法律に基づいて断罪されるべきだろう。
また、被害にあった障害者達、さらにその家族・周囲の人々には哀悼の意を表することしかできない。
しかしながら、この事件で『もし○○だったら』という仮定の状況がいくつか想起されると同時に、この凄惨な事件が突き付けたある種のタブーの議論の重要性は決して無視できないのが今後の日本のようにも思える。問題を矮小化しては亡くなった人たちが気の毒過ぎる。

衆議院議長大島理森宛の手紙とやらを書き起こしたA4手書き3ページのもの(ところどころ伏字)を読んだが、安楽死・尊厳死について以前から書いてきた筆者には、パチンコ反対だの医療大麻など、ところどころ同意する部分はあるものの、フリーメイソンだの第三次世界大戦だのに飛躍する陰謀論めいたものや犯行後の自身の保護や金銭等の要求だの世界平和だのとトっ散らかった単語の羅列はどこか中二病的な危うさが感じられ、とても26歳とは思えない。
もう一段、二段深く考えて欲しかったなと思うが、それが出来ないくらい精神的に疲弊し壊れていたのかもしれない。(同情しているわけではない)

障害者、痴呆老人、難病の末期的な患者等、自身で意思表示できない場合、安楽死あるいは尊厳死医学的な判定とその家族が決定しても良いとすべきだと筆者は以前から何度も書いているが、これは自分の親の最後の看取りまでのプロセスや脳腫瘍で13年強『本人が自分や他者を認識できていない状態』の義母とその周囲に付き合ってきた体験からの教訓・結論と自分がそうなった場合の家族への負担を考えてその道を作っておきたいと考えるからだ。人間の『生』は、親である男女が(タイミングは希望通りではなくとも)結果を想定しながら、何らかの意思を持って与えるもの(できない場合もあるが)であり、それならば『死』も血縁のある家族が医師の判定の後に決めて与えても決しておかしくはない。
さらに一歩進めて、ディグニタスのように明確な意思に基づく自殺とそれに必要な医学的な幇助も認めても良いと筆者は思うくらいで、いい歳になったらきちんと家族にバイバイを言ってサヨナラを言いたいのだ。胃瘻だの、例え肉親でもシモの世話をされるなどはまっぴら御免なのだ。潰してグチャグチャにした寿司ネタを食うくらいならさっさと鬼籍に入りたい。

そんなことをしたら・・・とあれこれ危惧する人も多いはずだが、筆者の場合は未だに明瞭な納得できる反対意見にお目にかかったことがない。
死を選ぶよりは生を選ぶ人間が多いからこそ人類は増殖し繁栄してきたわけで、仮に安楽死・尊厳死をルールを作って認める社会になったからといって生物学的に絶滅することはないだろう。

障害者、特に先天的な障害者は、出生前診断が徐々に一般的になり半ば義務的になれば割合は相当減るだろう。少なくとも染色体異常のダウン症(21番染色体異常)はほぼ根絶可能だろうし、成人後に事故が起きることもほぼ無くなる。生まれてくる命の選別ではなく、障害者が生まれることによって発生する周囲の想定外の不幸は誰しも歓迎はしないはずで、それならば、今生きている人間(親や周囲)の幸福を優先すべきではないのか。社会的コストは副次的な問題だ。
事件を起こした植松某も3年程の現場経験からそれを肌で感じたのだろうし、原因と結果、時系列から合理的に考えれば必ずそういう結論になるはずだ。ただ、合理性だけで人間の命を論じられないのも事実だ。

事件を起こした植松某がいくらの報酬で働いていたのかも少々気になる。
現在、介護なども含めて患者や老人と直接接する末端の労働者の報酬が問題になっているが、当たり前である。
臨床の医者が医者を続けられる理由の大部分が『報酬が高額だから』である。
医者の顧客すなわち患者は肉体や精神が普通でないから医者のもとに行くわけで、そんな異常な相手ばかり毎日見ていたら医者だって人間だ、必ず感情移入したり精神的におかしくなっても不思議ではない。健康な顧客は決して来ないのだ。
中にはおかしくなる医者もいるが、それを防いでいるのは高額な報酬であり、贅沢をしたりすることで自分の精神状態をフラットにしてコントロールしているはずである。
無論、中には『赤ひげ』のような清貧な医者もいるが、ほとんどは高額な報酬が無ければ即廃業するだろう。医者が肉体・精神的に健康であるために必要なのが高額な報酬であるはずだ。
もし、医者の報酬が普通のホワイトカラー並なら、気分転換もできずに精神を病んで患者を拒否したり、手を抜いたり、殺したりするケースが頻発するだろう。
相手が人間で、しかも肉体や精神が普通でないのを相手にする仕事、それが医者の仕事であり、同じように肉体的あるいは精神的弱者を同じように生身で相手にする介護等の仕事は医者並とは言わないまでもある程度高額な報酬でなければ全体の制度維持が危ないのだ。
生活できるプラスαの報酬でないと危ないはずだ。(それが、未だに生活できるできないのレベルで議論されている)
しかし、一方では公的な福祉の原資は限界があり、今後は現実的にはサービス供給側を増やすよりも需要側を減らさざるを得ないのは自明だ。左巻きが嫌いな福祉の切り捨てである。

介護や障害者相手のビジネスそのものが今後は数的に合わなくなることは目に見えているが、今回の事件は人手不足に加えて高額な報酬が必要になってくることへの大きな警鐘のように思える。
また、安楽死・尊厳死の議論や出生前診断の議論がタブー視されずにきちんと存在していたら、今回ほど凄惨な事件は起きなかったのでないかと思えて仕方がない。

改めて、亡くなった方々には合掌。


nakajima-miyuki-jidai今日の一曲
1975/12
中島みゆき “時代”

※高校の文化祭のテーマソングだったような記憶がある。

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キチガイの犯罪だけでは片づけられない への5件のフィードバック

  1. 無宗教 より:

    久々にコメントを書かせてもらいます。

    人に死を与える権利は誰にもありませんが、家族にも見放された重度の障害者を選んで行われたかのような今回の凶行は、もしかしたら本音では感謝とまではいかなくてもホッとした家族もいたのではないかと思ったりしました。人間ってそういうものでしょう。
    あの凶行が刃物を使った流血騒ぎではなく、障害者が寝ている間に静かに(ガスや薬で)逝かせたなら、どこか容認する人もいるのではないかと思います。

    身近に先天性の障害を抱えた子供(と健常な子供の2人)を持つ夫婦がいて、あらゆるものが障害を持つ子供中心になってしまっているのを見ると深く考えさせられます。
    もちろん、安易な解決法を他人がとやかく言うことではありませんが。

    安楽死や尊厳死、出生前診断等についてタブー視することなく議論できる空気は必要だと思います。そうでなければ議論すら認めない盲目的な9条論者の護憲と変わりないという気がします。

    • argusakita より:

      いろいろ調べると、1930年代までは近代合理主義や人道主義で消極的安楽死(医療を停止)や積極的安楽死(薬品等による)を容認する議論が醸成しつつあったようですが、ナチスによる強制的安楽死(T4作戦他)が次第にアウシュビッツに繋がって、戦後はそのトラウマで議論がタブー視されるようになったと思っています。
      ヒトラーはT4作戦の命令書は出しましたが、法律には署名せず、やはりどこかに『迷い』もあったようです。
      ただ、戦前の議論も結局はキリスト教的価値観の上での議論で、そのまま日本には当てはまらないと思っています。

      楢山節考の映画のような姥捨て、『七歳までは神のうち』、障害児は生まれた瞬間に産婆が絞めたといったものが日本の歴史や価値観でしょうから、改めて議論はされてもいいとは思います。問題はその議論が現在存命の障害者と家族の耳に入ることでしょうか。

      出生前診断は、1人目が障害児の親は反対しながらも、ほとんどが2人目の時行うそうです。
      そのうち当たり前になると思いますが、時間がかかりそうですね。

      くじらかやきさんの、
      >人のことよりも自分はその仕組みを欲しいという観点で。
      まさに私もそう思います。

  2. 嫌韓2 より:

    犯人の元同級生という人のツィート。
    現在の国籍は日本らしいですが、やっぱり朝鮮人でした。

  3. くじらかやき より:

    私も久々コメ。

    blog主の言う安楽死はたぶん自分も賛成。人のことよりも自分はその仕組みを欲しいという観点で。
    いつだったか、自民党の石原ノビテルや麻生が安楽死だったか尊厳死だったかを口にしたときに猛烈なバッシングでしたね。
    やっぱりタブー視してはいけない。ここも同意。

  4. ブルーベリー より:

    「知的障害者は生きる意味がない」 と言うならば、
    犯罪率が著しく高い朝鮮民族はどうなのでしょう?

    シールズの奥田愛基も自殺未遂癖があるけど、彼らの性質は日本人とは相容れないのです。
    気が合う仲間のいる半島にお帰り頂くのが双方の為でしょう。

    知的障害者がどうのと言う以前に、植松は半島に帰るべきだったのです。

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