『働き方改革』は『働かせ方改革』か?

モスクワは雨模様の曇天で気温は5℃前後だろうか。厳冬期のガッツリ氷の世界になってしまえば諦めもついてそれなりの気分の心構えもできるのだが、この時期は中途半端で仕事もイマイチはかどらない感じである。ついつい、早く夜になってくれたほうがありがたいと思うのはこれから冬に向かう欧州全般で言えそうだ。(冬場は夜を楽しむものが多いこともある)
日本のニュース記事を眺めていると、少し以前から気になっていた『働き方改革』の記事がいくつも目について、『働き方』といった本来極めて個人的なものを国家レベルで大真面目に取り組まないといけないことが実に日本的な話だなと実感。


20160902kanban01安倍首相も国会の所信表明等でこの『働き方改革』について言及しているが、筆者にはどうにもこの『働き方改革』というものの意味がわからないことと、何故今なのかもわからないというのが率直な感想だ。
現在の日本人の働き方がそんなに問題なのか? 仮に問題があるとして、それを改革あるいは改善するということは何を意味するのか? 有識者会議のようなものを開いて検討して何がどうなるのか? 疑問噴出である。
納税者の裾野拡大と言ってしまえばそれまでなのだが(^^)。

政府によれば、『働き方改革』の要点は、少子高齢化によって労働力不足(=納税者減少)を補うために女性や年寄りや障害者の活用や非正規雇用が必要となるが、従来の『24時間働けますか?』的な社会、企業のフレームワークやその延長では、それらをうまく活用できない。従って、それらを可能にするための国民と企業の意識改革、さらに企業側にモチベーションを与えるインセンティブ(長島英語みたいになってきた(^^))を政策でどうしたら与えられるかということなのだろう。

一見、『働き方』という働く側目線の問題のように見えるが、給与所得者にはそもそも『働き方の自由』などはあり得ず、原理的にその時間拘束と能力提供の対価として給与を貰うわけで、この問題を正確に言えば『働かせ方改革』なのではないか?
もし、そういった筆者の理解が正しければ、個人的にはそんなことは一朝一夕には不可能で100年単位の時間が必要ではないかと思える。
同時に、もしそんな『働き方改革』に莫大な予算を付けるくらいなら、さっさと首都圏中心に未解決とされる待機児童(これも変な日本語だと思う)問題を解決したり、若者が結婚して子供を生める方策を考えたらどうなのだと思える。

『働き方改革』や『働かせ方改革』を考えるには日本の企業社会、商習慣の特殊性を考える必要がある。
海外で仕事をしている人は、日本の企業社会、商習慣、言ってみれば企業文化が非常に異質であることは十分認識していると思うが、その特殊性はどこにあるか。
ビジネスを突き詰めれば人と人の繋がりで成り立っていることは日本でも海外でも同じで、重要な決断を伴う時はやはり実際に会って会話したり、相手の反応を確認することが大切なのは言うまでもない。(だから、こんな憂鬱な曇天のモスクワにウィーンから来ているわけだが(^^))

ところが、その相手との関係性で大きな違いが日本と海外では根底にある。(便宜上、大げさに海外と言ってみる)
日本は、江戸時代という内戦や対外的な戦争や民族紛争などの無い平和な時代を200年以上続けてきた。百姓一揆はあったが局所的なものである。その間に、非常に均質な価値観を刷り込まれ(例えば、お上第一的な)、平和であるからこそ仕事の本質(職人技、芸、美味い作物の開発等)を極めることにエネルギーを注ぐことが出来た。日本のモノ作りへのこだわり、礼賛的な姿勢はこの200年程で醸成されたのではないか。
結果的に、共通の価値観のムラ社会的あるいは家族的な信用や安心をベースにしたスタイルを作り上げてきた。
反対に日本以外の多数の国では民族の入れ替わり、為政者の変遷、隣国との紛争などが繰り返され、200年以上平和などという場所は地球上では相当に未開な場所以外では無かったと言っても過言ではないため、国内で共通の価値観という均質性はあり得ず、どこかに疑心暗鬼的なものや個々の価値観(個人主義)を持ち、それを相互に認めることが当たり前のスタイルを持ち続けてきた。その中で、いざという緊張感の中でビジネスをしてきたのである。

この違いが現在のビジネスシーンでも現れる。
地方に行くとより顕著だが、日本では企業も系列、子会社、トップの姻戚関係といったグループに依存し、未知の取引先を優先順位下位にする傾向がある。これは、共通の価値観や信用や安心を求める心理であり、同時に取引における広義のコスト低減(例えば訪問や接待の回数が少なくて済む等)になると信じている傾向がある。これは、リスク回避ながらも機会損失を招く
逆に海外では一般的に、疑心暗鬼的なものを抱えながらも、未知の取引先にはより大きなチャンスがあるかもしれないと捉えて積極的に取り組む。機会損失よりもリスク・テイクに重きを置く。
確かに取引のコストはひょっとすると日本よりも大きくなる可能性があるが、その代わり日本では決して削らないコストを削る。

例えば、顧客からの注文に欠品が生じた場合、日本なら欠品の理由について、在庫到着遅れの理由説明、次回入庫情報提供、入荷次第即連絡などを丁寧に説明し、ついでに無意味な『謝罪』などがごく普通でこれらは広義のコスト(担当者の精神的負担も含む)である。
しかし、海外ではインボイス等の備考欄にN/A(Not Available)と書いて終わりだ。
電話で顧客が発注先に問い合わせる場合、日本なら担当者が前記のほとんど無駄な情報とともに平謝りするが、海外では『N/Aと言ったらN/A』とe-mailやFAXが来て終わりである。無駄な情報を与えることもなく、担当者の謝罪といった精神的なコストも使わない、日本では当たり前のコストを削っているのである。

江戸時代の200年間ですっかり刷り込まれ、明治以降の親方日の丸的な教育を受け、均質性、信用、安心、性善説的なものをベースに日本の企業文化・風土は出来上がっている。
その中に、老人、女性、外国人、障害者、非正規雇用といった均質性に欠けるものを受け入れがたいのは当たり前なのである。

また、日本の企業文化はその均質性の維持を目指す傾向があり、その結果普通ではない因子を排除する傾向もある。それが社内の『他人の目』的なものであり、上司以外に同僚等による相互監視・評価が均質性を崩さない方向で働く。戦時中の隣組的なものも同じか。
労働者の権利だからと言って長々と有休を使ったり、逆に残業を断れずにサービス残業をするなどもこの相互監視・評価の効果の表れだろう。

結局、『働き方改革』や『働かせ方改革』は日本の企業文化・風土の改革であろう。100年単位の時間が必要と思うのはそこである。
改革が良いかどうかはしばらく後の判断だろうが、現在あるいは近い将来、その企業文化・風土が異質なもの、即ち年寄り、女性、外国人、障害者、非正規等を受け入れないことで労働者不足を生むことになるだけではなく、TPPがあろうがなかろうが、ますます国際化する場合に、系列、子会社といった共通の価値観のムラ社会的あるいは家族的な信用や安心をベースにしたスタイルのビジネスではやっていけない(機会損失)だろうことは間違いない。


arthurs-theme今日の一曲
1981/10
Christopher Geppert Cross “Arthur’s Theme (Best That You Can Do)”
何故か映画Arthurの主題歌が日本では『ニューヨーク・シティ・セレナーデ』
歌っている人は知らなくてもこの澄んだ声とメロディは多くの人が覚えているのではないだろうか。クリストファー・クロスは少々本人と声にギャップがあったか・・・。

 


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カテゴリー: 社会・経済, 国政・国会 タグ: , , , , , , , , , , パーマリンク

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