クリスマスと理科教育

窓から外を見るとウィーンの街並みもクリスマスシーズン特有のデコレーションなども見え、本来キリスト教の行事ではないそうだが、クリスチャンにとっては復活祭などとともに一大行事なのだなとつくづく感じる。
考えてみれば、仕事の都合や旅行だったりで、日本や世界のあちこちでクリスマスイブやクリスマスシーズンを過ごしてきたが、元々クリスチャンではないものの、幼稚園がカトリック系だったこともあり、ここだけは妙に習慣の一つとして体にプログラミングされているような気もする。とはいうものの、筆者もイブから1週間のうちには除夜の鐘(仏教)、初詣(神道等)と宗教的には節操も無く動き回るごく標準的な日本人の一人でもある。

子供の頃のクリスマスで印象深いのは、秋田に引っ越しした最初の年(8歳)のクリスマス近くのある日、親父が薄くて長い箱に入ったクリスマス電球を持ち帰った時だった。
当時、秋田市の臨海工業地帯(?)の一角(おそらく現在の秋田トヨペットのあたりか)にはアメリカへの輸出用のクリスマス電球の工場団地があり、親父が何かの見学の際にもらってきたものだったような記憶がある。地場産業として期待されたようだが、長期的な展望は無かったようで、今は跡形もない。
年末の大掃除や神棚等の手入れなどの行事的なものはあったが、それまではクリスマスプレゼントは親からもらったものの(上に兄弟がいるとサンタクロースの存在はほぼ最初から信じないのが普通だろう)室内にクリスマスツリーなどを飾る習慣は我が家には無かったため、幼稚園の大きなツリーとは別のこのアメリカかぶれ的な室内のデコレーションは子供心には新鮮だった。

特に特別な電気回路が付いているわけでもないクリスマス電球があるものは点いたまま、あるものは点滅する。点滅の時間が一定というわけでもなく不思議で、親父にその訳を聞いたときに、次の日だったか小さなバイメタルを手に入れてきて、それを使って豆電球の点滅を実演してくれて原理を説明してくれた。
要するにクリスマス電球はフィラメントの近くにバイメタルを使い、温度が上がるとフィラメントの電流が切れるようになった構造で、点灯直後はバイメタルが加熱されるまで時間が掛かるため、しばらくは点灯の状態になる。
これは、なかなかの驚きと感動だった。
バイメタルに使われるインバー(合金)は1920年にノーベル物理学賞をもらったギョーム(スイスの物理学者)の功績である。

原理を聞いていた兄とともに結局は筆者も理科系の道を選ぶことになったが、この親父の目の前での実演がそれに大きな動機を与えていたかもしれない。
兄は電気・電子系に進み、筆者はどちらかという機械系に進んだが、親父の実演で見ていた場所がそれぞれ違ったのかもしれない。
電気・電子系は大雑把に言えば数学の世界であり、数学が苦手な者は進めない世界だが、その後の学生時代の成績を見ると兄よりも筆者のほうが数学は良かったので、結果的には互いに道を間違えたのかもしれない(^^)。

ノーベル賞の季節になると毎年のように理科、基礎科学の教育の問題が話題になるが、自分の子供たちの小中高での理科(物理・化学・生物)の時間の話を聞くと自分たちで実験・実習というのはほとんどやっていないことがわかって何度もガッカリしたものだ。
教科書は昔は無かったほどきれいな印刷の写真は載っているものの、自分で試験管等のガラス器具を使ったり、ガスバーナーを使ったり、劇薬を使ったり、小生物を解剖したり・・・、水銀の入った小瓶を持ち上げようとして、液体の重さについては水しか物差しが無い者は、予想外に手首が引っ張られる経験をする。そんな体験もせずに理科系の教育などモチベーションが生まれるわけがない。
今は危険だの何だのと煩く、学校も万が一の事故の責任を取りたくないのだろうが、昔は強酸や強アルカリはおろか、劇薬なども子供の手の届く場所にあったし、水素の発生実験でポンという爆発を笑いながら楽しんでいた。フナやカエルの解剖が上手な友人がその後板前になった例は無いが(おそらく主要な器具が片側に丸い突起がついたハサミだったからだろう)、バーナーでガラス管を極限まで伸ばして(それでも中空)遊んでいた奴などはひょっとしたらガラス工芸でメシを食っているかもしれない。

沸騰石を後から入れて、飛び跳ねた熱湯でちょっと火傷したり、硝酸銀溶液で皮膚が数mmの黒子のように黒くなる火傷をしたり、水素が爆発して試験官が割れて指を切ったり、強アルカリで手がヌルヌルしたり、炎の色を変える(花火の色の原理)金属粉のついた手でうっかり目をこすったり、アンモニアでむせ返ったり・・・。
高校の時などは化学の試薬の棚から硝酸を持ち出して、脱脂綿を使っていわば火薬を作って、耳かき一杯くらいでもその煙の多さに大騒ぎしたり、木炭やイオウを使って・・・(詳細は書けない)。友人にはトルエンの三段硝化でTNTに挑戦して火傷した奴もいた。
今でもアンホ爆薬みたいなものはある種の農薬と道具があれば作れるだろうが、自分で怪我をするリスクも知っているため試すことは無いが、そういった若い頃、子供頃の知識・経験を役立てて(?)いる奴もいることだろう。

科学や技術はやはりどこか体を張って覚えたことだけが身に付く。リスクを含めてとことん学び、経験した後、それを光として使うか闇として使うか、これは科学や技術の問題ではなく、倫理や道徳の重要な問題である。
理想的にはそれらが並行して教育されるべきだが、倫理や道徳が先行する日本では、リスクについて机上の勉強だけで詰め込むため、そこに至る科学や技術が敬遠される結果になっている。基礎科学の重要性や実験・実習の必要性が軽視されれば、そのツケは教育水準の低下になって表れてくる。

時代は、反ポリコレ、本音の主張が力を持ってきている。それとどこか同じように、日本の理科系教育もそろそろ倫理や道徳の建前を先行させたり、安全・安心の責任を他者に委ねることを見直すべきだし、教育する側も責任やリスクを負う覚悟を持つべきではないか?


jamie-paul-id-like-you-for-christmas今日の一曲
2010
Jamiee Paul “I’d Like You For Christmas”
ちょっと訳ありで一人で過ごすクリスマスにはぴったりかな。まあ、宗教的なマインドは無くても若い頃を思い出してシミジミという人もいるかも。
オリジナルはJulie Londonの1957年の曲。これもYouTubeに沢山あるが、何しろ音が1950年代なので、Jamiee Paulを。


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クリスマスと理科教育 への1件のフィードバック

  1. それ以前に秋田県では理科教育は・・・。文科省の学力テストの上位維持には力を入れてますが、反面、そのためにバイメタルで遊んだりするようなことは公教育の中ではほぼ無理でしょうね。教科書を元に出題されるために、教科書とまったく同じ形で実験を行うことを強要されるからです。法則が理解できるのなら教科書指定の方法でなくても批判されないはずですが、別の実験から教わった場合、文科省の一斉学力テストで不利になりますから。
    ですから、表面的なことというか知識的なことはある程度上に行っていると思うんですが、発展性というか応用力というか、そういう点ではなかなか能力を上がることができていないような感じも受けます。

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