“やり過ぎ”な日本の食べ物

一昨日からウィーンのオフィスから社員さんの1人のアンヌ(ドイツ生まれのフランス娘)が来ている。筆者の会社では少なくとも1年に1度は日本に出張させていて、日本の商習慣や仕事での付き合い方を勉強してもらっている・・・というのが建前で、有休をくっつけても構わないので日本を知ってもらおうというのが筆者の目論見&福利厚生の一環として続けている。
このアンヌもなかなかの日本ファンなのだが筆者に言わせれば相当なオタク志向で、日本に来るとコンビニ回りが楽しみという変わり者。この時期ならもっと日本の冬祭りや自然を知ってもらいたいのだが、まあ仕方がない。

彼女に言わせると日本のコンビニこそ現代日本のサブカルチャの先端に位置するほど興味深い食べ物やグッズが一度に俯瞰できるところは無いそうだ。しかも東京の場合は大手3社以外にもあれこれあるというので楽しいのだそうだ。(横浜生まれのスリーエフなどはローソンに吸収されたりで3社に集約されつつあるが)
ウィーンには他の欧州各国同様に(かつて日本でもよく見かけた)SPARがあちこちにあるが、営業時間規制などの制約でCVSそのものが難しいため、普通のスーパーである。(SPARは日本を撤退したのかな?)

7-11cornそのアンヌがニコニコして買ってきたものが、写真(似たものをネットから勝手に拝借)のような『焼きとうもろこし』『むき甘栗』。娘達に教えられて知ってはいたが、食べたことは無かった。
スイーツはスイーツでもブルーグリーンの眼とダークブロンドの女の子が『焼きとうもろこし』と『むき甘栗』をお気に入りとは・・・。江戸に来たら『寿甘』でも食えと。

確かにこの二つは美味いしお手軽なのだが、フと『これでいのかニッポン!?』と少々気になった。
そこで、知っている人には今更の話だが、爺臭く、いちゃもんをつけてみる。

最近は祭りの縁日や露店などを回ることはあまり無くなったが、いつの頃からか焼いたとうもろこしを売っているのを見ることが少なくなった気がする。とうもろこしは元々はポルトガルから長崎、そこから全国に北上して広がったらしく、北海道は最後。しかし、その後北海道に新種が導入され、それが東北・関東と逆に南下して広がったという行って来いの伝播の歴史があるそうで、呼び方も様々、呼び方で出身地がある程度わかるものだ。とうもろこしの『とう』は唐から来ているらしいが、『もろこし』も唐士から由来の植物の名前だそうで、意味的にはChina Chinaで草津の湯揉み唄のようなものだ。
秋田でもとうきびとかとっきみとか様々呼び名があるが、愛知では『なんばと』岐阜では『まるきび』というのも聞いたことがある。
秋田でも売られているが、青森の『獄きみ(だけきみ)』はすっかりブランドになり、ドットコムまであるが、生産量の数倍は流通しているのではないだろうか(^^)。
山形のだだちゃ豆同様、夏の終わりというか鈴虫が鳴く頃の美味い食べ物である。

このとうもろこしを焼いて醤油(砂糖も少し入れるかな?)を塗って少し香ばしくなるくらいまで焼いたものを両手で持って『ハムッ!』と食うのが焼きとうもろこしの醍醐味なのだが、それを省いて、パラパラになったものをスプーンで食べる・・・これがコンビニで売っている『焼きとうもろこし』である。
『ハムッ!』とやって歯に挟まる時だけ『あー、歯医者行かなきゃ』と思うのが人情で、食い終わったらそんなことはすっかり忘れる。これこそ日本の夏の正しい姿だろう。

sweet-maroon一方の甘栗。
今も探せばあるだろうが、伝統的な紙袋に入った天津甘栗は街なかでなかなか見かけなくなった。秋田市の木内百貨店の駐車場の交差点寄りの片隅の売り場が懐かしいのは筆者だけではないだろう。
天津甘栗という名前は天津で食べられているという意味ではなく日本向けの支那栗の輸出港が天津だったからだそうだ。
子供の頃、天津甘栗はなかなかの楽しみだった記憶がある。
指が小さく力のない頃は、爺さんや婆さんが新聞紙を広げて、栗の腹に爪を立ててその割れ目を両側から押してパカッと中身を出すのを一生懸命見ながら『スゲェッ!』と。
まあ、そのうち指先に力がついてくると自分でできるようになり何でもないことなのだが、あの甘栗をパカッと割って中身を取り出して孫に食べさせるのはおそらく年寄りにささやかな優越感と幸福感を与えたに違いない。
しかし、コンビニの『むき身甘栗』は、幼い子供の驚きと探求心と同時に年寄り達のささやかな優越感と幸福感を奪ってしまった。

子供の喜ぶ『自分で作る』タイプの『ねるねる』というグミのようなものがあるが、あれのR+60くらいの商品を出して、年寄りしか買えないようにして、作り方欄に『人肌のお湯を使う』とか『練る回数は歳の半分程度』といった表記にして子供には理解できないようにし、爺さん婆さんが得意げに孫に作ってやったら多少はコミュニケーションが生まれはしないか・・・無理か。(^^)

確かに、『焼きとうもろこし』と『むき甘栗』も食べたいものをそのプロセス抜きで手に入れて食べることのお手軽さや便利さはあるだろうが、そこにある季節感や風物詩、年寄りと孫のコミュニケーションや年寄りの優越感や幸福感を奪ったことは罪深い。
同じようなストレートなお手軽さ、便利さは広尾の明治屋で奇麗に形が揃えられた魚の切り身を躊躇なく買っていくセレブと似た発想ではあるが、どこか違うものである。
連中は、(ブランドものの)サバやカレイ(切り身1つ1,000円なども珍しくないが)などの魚の姿などどうでもよい(知らない)わけで、彼らが食べる(金を払う)のはブランドの『関(サバ)』だったり『城下(カレイ)』だったりするのだ。(まあ、実際美味いことは美味い)

コンビニの『焼きとうもろこし』と『むき甘栗』に代表されるお手軽・便利食品は確かに手も汚れないし現代的ではあるだろうが、何かオーバーシュート(やり過ぎ)している気がしてならない。
欧州では季節になると今でも屋台が出て焼き栗を売っている。三角形にした新聞紙に入れてもらい歩きながら食べるのだが、特に味はつけていなく栗そのもの(日本の栗とは味が違う)を味わうため、子供のお菓子というより大人向けである。生焼けも時々あり、歯が欠けたなどというのもよく聞く。
しかし、あの風物詩と屋台の主の仕事を守っているのが欧州の伝統であり、日本のコンビニのやり過ぎとは全く別の文化的な対極にあるもののように感じる。

なぜ日本では食べ物についてオーバーシュートしてしまったのかを考えると、食品衛生法や食品安全基本法といった『おおきなお世話』法や屋台や露店の営業許可に関する自治体の条例のようなものが食品や商売の自由度を狭め、その不自由な中で何かを求めると結果的にオーバーシュートした歪んだ食べ物のように見えるものが出てくるのだろう。
息苦しい日本のシンボリックな食べ物である・・・と筆者には見える。

でも、マジで美味いなこの『焼きとうもろこし』!(^^) レンジでちょいと温めるのがベターか。


r-8438600-1461612993-4041-jpeg今日の一曲
1989
Benny Carter “Over The Rainbow” (Benny Carter’s All-Star Sax Ensemble)
1939年のミュージカル映画『オズの魔法使』でジュディ・ガーランドが歌った劇中歌。Jazzのスタンダード中のスタンダードで様々なミュージシャンが演奏を残している。
Sax奏者では、Chet BakerArt Pepperなどのインプロビゼーション混じりのシミジミしたものも好きだが、Jazzっぽく陽気な感じの演奏はこのBenny Carterのものがお薦め。


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“やり過ぎ”な日本の食べ物 への3件のフィードバック

  1. argusakita より:

    ついでに言えば、最近日本で税金絡みでまた話題になっている発泡酒と第三のビール。
    ずっと以前から、あれは日本から無くなって欲しい飲み物だと個人的に思っている。

    飲み物(特にアルコール飲料)も一つ一つ歴史があり生産者のストーリーが見える文化の一つだが、この2つの歴史は単に税制の抜け道である。
    消費者もそんなに安いアルコールが飲みたいなら、炭酸水にエチルアルコールを入れて飲んだらいい。その程度の工業製品である。

    ロシア人も安いアルコールが飲みたくて入浴剤を飲んで死んだりするが、2,000年の文化を誇る日本が、発泡酒と第三のビールといった軽薄な文化を許す空気がたまらなく残念だ。

    酔っぱらえば何でもいいんだよ! はい、その通りです。(^^)

  2. 「上に政策あれば、下に対策あり」はシナ用語ですが、日本にも結構あったようで。池波か藤沢か出所はおぼろですが、江戸時代の庶民が口にする酒はやたら水っぽかったそうで。いくら飲んでも今の様には酔えない。酒屋の課税対策だったそうです。ウナギの寝床の様な京都の商家も税金対策。風情も何もあったもんじゃない。目黒の秋刀魚、デビ夫人のバカ舌のごとく、高い魚を食うセレブを庶民はフンと鼻で笑ってりゃいい。ナポリのLACRYMA CHRISTIは、あまりの美味さに市場に出さず、自分たちで飲んじまっている。こういうのもあり、ということで。

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